日本に輸入された最初のウイスキーはアイリッシュ? 猫印ウイスキー

歴史
06 /09 2020

明治に元号が変わる前後から、外国人居住地に住む外国人向けにはさまざまなウイスキーが持ち込まれていたようなのですが、日本人への販売を目的として初めて輸入されたウイスキーは、1871 年に横浜山下町のカルノー商会が取り扱った「猫印ウヰスキー」であるとされています。

 

たとえば、土屋守さんが書かれた『ウイスキー通』にも、「1871(明治4)年に横浜山下町のカルノー商会が輸入した通称「猫印ウイスキー」で、これが日本人向けのウイスキー輸入の最初の記録だとされています」とあります。

 

そして、この猫印ウイスキーというのは、19世紀後半には世界を席巻していたアイリッシュ・ウイスキーであり、その銘柄はバークス (Burke's) である可能性が高いのではないかと言われています。

 

そのあたりについては、ウイスキー・マガジン誌に石倉一雄さんが『戦前の日本とウイスキー』というタイトルの記事で詳しく解説されているほか、こちらの特許翻訳者の方も各国の商標データベースなどを資料としてブログで詳細に検証されています。

 

少し話が横にそれますが、私は2016年頃からアイルランドのウイスキーやビールのグッズを集め始めました。E-Bayのようなオンライン・オークションで買うこともありますが、オークション会場に出かけて札を上げて買ったりもします。

 

そういうオークションに初めて出かけたときか、2回目だったかに、下の写真のアイテムを競り落とすことができました。

 

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バークス・ウイスキーのパブ・ミラーです。パブ・ミラーといっても、正直、かなり雑なつくりです。1.2cmぐらいの木の板と0.8cmぐらいのガラスの間に、おそらく紙のラベルが挟み込まれているというもの、ガラスはいちおう面取りはしてあります。サイズは約45x30cm

 

バークス・ウイスキーのトレードマークである猫の姿が見えるでしょうか。猫印のところだけ拡大しますね。

 

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このパブ・ミラーはハンマー・プライスが55ユーロで、手数料等を入れて全部で68ユーロぐらい払いました。

 

バークス・ウイスキーは、E&J Burke 社というエドワードとジョンのバーク兄弟が創った会社が生産していました。この 2 人は、ギネスの創設者であるアーサー・ギネスの孫で、アメリカでのギネスの独占販売権を取得するなど、アルコール飲料事業を手広く営んでいました。

 

ウイスキー業者としては、自社で蒸留所を構えていたのではなく、蒸留所からウイスキーを買ってきてブレンドして販売するボトラーだったようです。

 

バークス・ウイスキーがいつ頃まで販売されていたのかは分からなかったのですが、会社自体は創業が 1848 年、廃業が 1953 年です。アメリカの禁酒法やら何やらで、20 世紀半ばまでにアイリッシュ・ウイスキーは壊滅的な打撃を受けて、数多くのブランドが市場から退場したのですが、Burke's もその中の 1 つだったようです。

 

ところが、この Burke's ブランドが2017年に復活を果たしたのです。復活させたのは、新興の独立系蒸留所であるグレート・ノーザン・ディスティラリー。限定生産の 14 年モノと 15 年モノのシングル・カスク・ウィスキーが、ダブリンにある Celtic Whiskey Shop というウイスキー専門店でのみ販売されています。お値段は700ml入りで 135 ユーロと 132 ユーロ。1 7 8 千円ですから、高級品の部類ですね。ただ、アルコール分が高くて、それぞれ59%57.5%です。


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猫の下のアルファベットが EJB から GND に変わっているがお気づきでしょうか。

 

グレート・ノーザン・ディスティラリーは、北アイルランドとのボーダーに近いダンドーク (Dundalk) という街にあります。アイリッシュ・ウイスキー復活の立役者のひとりともいえるジョン・ティーリング氏が中心となって運営しています。操業開始は2015年。 

 

この蒸留所は、もともとはグレート・ノーザン・ブリュワリーというビール醸造所で、ディアジオ (ギネスの親会社) がハープ (Harp) というブランドのラガー・ビールを 2013年まで製造していました。

 

年間1,600万リットルのウイスキーを生産でき、ポット・スティルと連続式スティルを駆使して、グレーン、トリプル・モルト、ダブル・モルト、ピーティッド・モルト、ポット・スティルのウイスキーを生産しています。自社ブランドで製品を出すというよりも、ボトラーや他のブランドに原酒を提供するのが主なビジネスのようです。

 

復活したバークス・ウイスキー、ちょっとお値段が張りますが、日本と縁のあるウイスキーということで、お土産にいいかもしれません。

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     (1930年代ころのバークスのボトル)


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1875年のダブリン・リバティーズ地区の大火事の話

歴史
05 /30 2020

1875年にダブリンのリバティーズ地区で大火事が発生しました。当時のダブリンはウイスキーの世界ナンバー1の生産地。今のティーリング蒸留所あたりにあった、マローンズというウイスキー等の保税倉庫から出火します。

 

火事が発生したのは618日金曜日の夜のこと。最後に倉庫の鍵を閉めたのは徴税官。それが午後4:45のこと。そして、最初に火の手が発見されたのは午後8:30ごろです。消防隊が駆け付けたころには、これまで見たことがないほど火は大きく広がっていました。

 

樽が火に包まれ、ウイスキーが漏れ出すと、それに火が点いて樽は大きな音を立てて爆発します。大量の樽を貯蔵していたマローンズ倉庫からは、59メートルの青い炎を上げながらウイスキーが川のように流れ出します。ある目撃者は、この様子を「燃える洪水」と表現しています。マローンズ倉庫は318リットル入りのウイスキーの樽が少なくとも1800あったと言われており、当時の新聞はワインやブランデーを含めて5000樽あったとも書いています。

 

火は近隣の家屋も襲います。人々は持てるものだけ持って大慌てで避難します。通夜を行っていた家では死体を抱えて逃げ出したそうです。緊急手段として馬や豚や犬は放たれ、そうした動物がその辺を走り回っています。

 

野次馬たちも集まってきます。日本でも「火事と喧嘩は江戸の花」などといいますが、娯楽の少ない時代には、大きな火災というスペクタクルに不謹慎ながらも人々は興奮したのでしょう。さらにこの火事ではウイスキーの匂いに引き寄せられてきた人もいます。人々はビン、ポット、帽子、靴など、使えるものをすべて使って流れるウイスキーを掬ったそうです。そして、この群衆をコントロールするために、数多くの警官と軍隊が駆り出されました。


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(下でご紹介するThe Great Liberties Whiskey Fire』という本から。元々は L'Illustrationというフランスの新聞に当時掲載された挿絵)


水をかけるという従来のやり方では、逆にウイスキーの流れに乗って火が拡散してしまうので、風変りな消化方法が採用されました。肥え(つまり、牛馬の糞)を使って流れ出るウイスキーを堰き止めたのです。動物の糞以外にも、住居の裏庭に貯めてあった人間の排泄物(今ほど下水が近代化されていない時代です)、皮なめし工場の廃棄物(当時の皮なめしの工程では、尿、犬の糞、動物の脳みそなどが使用されていました)が大急ぎで集められました。

 

もう1つ有名な話は、この火事に関連して死亡したのは13人とされていますが、誰も火事の直接の被害で死んだ人はいないということです。火傷や煙で死んだ人もいなければ、倒壊する建物の下敷きになって死んだ人もいないのです。なんで死んだかというとアルコール中毒です。火事の見物に集まった野次馬たちの中に、帽子や靴で流れているウイスキーを掬って、しこたま飲んでしまった人がいたのです。

 

火災が発生した夜は、たまたまアメリカ人の記者が数多くダブリンに滞在していました。アメリカ対アイルランドの射撃の競技会が開かれていたので、取材に訪れていたのです。そのため、この火災とそれに伴う大混乱は、アメリカでも大きく報道されたようです。

 

以上、リバティーズの大火災について知ったような顔をして長々と書いてきましたが、元ネタは『The Great Liberties Whiskey Fire』という本です。先日(20202月頃)、ティーリング蒸留所のギフトショップに言ったときに購入したものです。100ページに満たないソフトカバーですから、小冊子といってもいいかもしれません。本の発行は201912月です。

 

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この本のおもしろいところは、著者のラス・ファロン (Las Fallon) さんが、熱心なアマチュア歴史家であると同時に、元消防士だということです。30年にわたってダブリンの消防署に務めていたそうです。ですので、火を消す側からの視点で書かれているのですね。

 

牛馬の糞を使って溶岩のように流れるウイスキーを堰き止めるというアイデアを出したのは、当時のダブリンの消防隊長だったジェームズ・イングラム氏。

 

イングラム氏は1850年代にアメリカに移住し、ニューヨークで印刷関連の仕事をしながら、ボランティアで消防隊に参加していました。そこで培った経験を、ダブリンに戻ってきて生かしたわけです。

 

イングラム隊長は1881年に結核でこの世を去りますが、ダブリン市内には彼の功績を称える記念碑などなく、彼の墓には墓石もないそうです。本の著者のファロン氏は、そのことを嘆いておられます。

 

出火元となったマローンズ保税倉庫のあった場所は、コーク・ストリート、アーディー・ストリート、チェンバー・ストリート、オーモンド・ストリートに囲まれた一画です。ここは、45年前まで柵に囲われた空き地だったのですが、今では市民が憩える公園に生まれ変わっています。

 

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このあたり一帯は再開発が進んでいて、大火災があった当時の面影はほとんど残っていません。道を挟んでマローンズ保税倉庫の東側にあったワトキンス醸造所だけが廃墟のような形で残っています。ただし、建物の一部は今でも倉庫または事務所として使われているようです。


 

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ちなみにファロンさんの歴史への熱意は息子さんのドナルさんにも受け継がれたらしく、ドナルさんはダブリンの歴史や文化について語る comeheretome.com というウェブサイトを主宰されています。 


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キナハンズ・ウイスキー

歴史
05 /17 2020

私はときどきオークションでウイスキー関係の昔の広告やパブミラーを買ったりします。こちらは、5年ほど前にあるオークションで買った額縁入りのウイスキーのポスターです。

 

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思いのほか安く競り落とせて、ハンマー・プライスが20ユーロだったと記憶しています。これに手数料が付くので、支払ったのは25ユーロくらい。文字しか書いていない地味な広告だったので、欲しいと思う人はあまりいなかったのでしょう。

 

いつ頃のポスターかということですけど、裏に新聞紙が貼ってあって、そこに「アーマー大司教のダルトン枢機卿」の文字が見えます。ダルトンがアーマーの枢機卿だったのは1946年から1963年までなので、おそらくその時期のものだと思われます。

 

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ジェムソンの12年物のウイスキーのポスターですけど、下部に小さめの文字でバゴッツ、ハットン & キナハン (Bagots, Hutton & Kinahan) と書いてあります。BH&K はいわゆるボンダー (Bonder) またはボトラーですね。ボンダーというのは、自前で保税倉庫を持っていて、蒸留所から買ったウイスキーを樽につめて熟成させ、その後、瓶に詰めて消費者に販売するのです。保税倉庫というのは、その中に保管している間は酒税の支払いを猶予されていて、そこから出す時に初めて酒税を払えばよいという許可を得た倉庫のことです。今は蒸留所が自社で瓶詰めしますけど、昔は、樽で各地のボンダー/ボトラーにウイスキーを卸していたんですね。

 

さて、今回はこの Bagots, Hutton & Kinahan (以下BH&Kと書きます)にいう会社について調べてみたことを書きたいと思います。

 

会社の登記情報を参照できるWebサイトをあたってみると、BH&Kが設立されたのは1927年。会社登記事務所に最後に書類を提出したのは1981年だということがわかります。


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つまり、1981年前後には会社としての存在はなくなっていたはずなのですが、最近になってキナハンズ (Kinahans) というウイスキーが復活したのです。

 

会社の Web サイトの「歴史」ページによれば、キナハンズのブランドは1779年にダブリンのトリニティ・ストリートで生まれました。キナハンズ・ウイスキーはかなり人気があったようで、1819年にはダブリンの中心部に4階建てのビルを構えるようになり、1845年には英国王室御用達となります。


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1862年には、アメリカの伝説のバーテンダーであるジェリー・トーマスが、その著書の中でキナハンズ・ウイスキーを取り上げます。また、キナハンズの人気が高いことから、キナハンズのボトルに他社の劣等なウイスキーを入れて販売する不届き者が続出。これを差し止めるためにキナハンズは裁判に訴え、1863年に勝訴します。

 

ところが、20世紀にはいって潮目が変わってしまいます。アイリッシュ・ウイスキー業界全体が退潮する中、一族の中で経営に大きな役割を果たしていたジョージ・キナハンが逝去。売り上げも低迷します。

 

会社は1912年にバゴッツ & ハットンに吸収され、BH&Kが生まれるわけです。バゴッツ & ハットンも長い歴史のあるワイン/蒸留酒販売業者だったようです。

 

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BH&Kは米国で禁酒法が始まる1920年にキナハンズ・ウイスキーの販売を終了。その後は、冒頭の広告にあるようにジェムソンを販売したり、バゴッツ (Bagots) というブランドでウイスキーを販売していました。


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そして、キナハンズ・ウイスキーが、100年近い眠りから目覚めて復活したのは2014年のことでした。

 

さて、ここで私が疑問に思うのは、現在の経営者はキナハンズの創業家と関係があるのか、ということです。

 

現在のキナハンズ・ウイスキーを販売する会社について、会社登記情報を調べてみると、経営者はルパート・クレバリーというイギリス人のパブ経営者のようです。この人の名前で検索すると、彼が登場する新聞記事がいくつも出てくるので、その業界ではかなり有名な人なのではないかと思います。

 

ここからは私の推測になりますが、クレバリーさんはイギリス人だということからしても、キナハン一族とは関係がなく、キナハンズのブランドの権利を購入してウイスキー事業に参入したのではないかと思うのです。パブを経営しているわけですから、一定の販路は確保できているわけですし。

 

この会社は自社で蒸留所を構えている様子はないので、アイルランドのどこかの蒸留所からウイスキーを購入し、ブレンドして、自社ブランドで販売しているのでしょう。もちろん、それが悪いわけではありません。そういう会社はいくつもあるし、味が良ければ誰も文句はいわないわけです。昔のキナハンズも元々はボンダーだったわけですしね。


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確かティーリング・ウイスキーのジョン・ティーリングだったと思いますが、良いウイスキーを作ることと良いブランドを作ることは別、みたいなことを言っていました。味がいいだけではダメ。ブランド力も必要というわけですね。良いブランドをゼロから作り上げるには時間がかかるので、過去の有名ブランドの権利を買うというのは、これまでもいくつか例がありました。

 

たとえば、ティーリング自身もクーリー蒸留所を経営していたときにワット蒸留所のフラッグシップ・ブランドだったタイコネル (Tyconnell) を蘇らせました(このブランドを現在所有するのは、クーリー蒸留所を買収したサントリー・ビーム社です)。バークス (Burkes) という古いブランドも復活しました。

 

 

さて、一方のバゴッツ・ハットンはどうなったのでしょうか?

 

実はリフィー川沿いにバゴッツ・ハットンというワイン・バー/レストランが2012年頃にオープンし、2018年頃まで営業していました。今年の2月ぐらいまで残ってたバゴッツ・ハットンのツイッター・アカウントのホームページには、「1829年以来、優れたワイン、紅茶、コーヒーをお届けしています」と書かれていました。


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BH&Kのバゴッツ・ハットンの流れを汲むことは明らかですが、このお店の詳細も不明なのです。バゴッツ・ハットンの創業家の人がやっているのか、それとも誰か (クレバリー氏の可能性もあります) が権利を購入して経営しているのか。

 

お店は閉じましたが、まだ外装が残っていたので写真を撮ってきました。残念ながら、私は一度も入ったことはありません。


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1枚のポスターを巡っていろいろ調べてみると面白かったのでブログ記事にしてみました。他にもオークションで買ったウイスキーの広告やパブミラーがあるので、それについてまた記事を書いてみたいと思います。


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ゴールデン・トライアングルと呼ばれたリバティーズ地区

歴史
04 /19 2020

リバティーズ(The Liberties)は、ダブリンの中心部から南西に徒歩で20分ほどの場所にあります。18世紀の終わりごろからウイスキーの蒸留やビールの醸造が盛んであり、1880年頃には、世界最大のビール醸造所であるギネスと世界最大のウイスキー蒸留所であるジョージ・ロウ&サンズがこの地で操業していました。

 

ほかにも、ジョン・パワーのジョンズ・レーン蒸留所、そしてジェムソンの傍流であるマロウボーン・レーン蒸留所など、一時期は半径1マイル(1.6キロ) の中に40近くの蒸留所がひしめいていており、ゴールデン・トライアングルなどと称されていました。

 

アイリッシュ・ウイスキーの衰退に伴い、ジョンズ・レーン蒸留所が1976年に閉鎖されたのを最後に、この地で稼働する蒸留所はゼロになったわけです。しかし、2015年にティーリング蒸留所がオープンしたのを皮切りに、ピアース・ライオンズ (Pearce Lyons) 蒸留所、ダブリン・リバティーズ (Dublin Liberties) 蒸留所、ロウ & (Roe & Co) 蒸留所が相次いで操業を開始。アイリッシュ・ウイスキー産業の中心地としての活気が戻りつつあります。

 

今回は、アイリッシュ・ウイスキーの豊かな伝統を引き継ぎながら、新たな息吹を育みつつあるリバティーズについてご紹介したいと思います。


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まず、リバティーズ (自由) という名前の由来です。リバティーズは今でこそダブリンの街の中心部に位置するといってもいいと思いますが、中世の時代には、ダブリン市を囲う城壁の外に位置していました。そのため、市の法律とは異なる法律に則ってこの地域は治められていました。市の法律から自由という意味でリバティーズという名前になったそうです。

 

リバティーズ地区は、古くから職人や労働者が多く暮らす地域であり、昔ながらの下町情緒の漂う街です。リバティーズの真ん中を東西に横切るトーマス・ストリート (Thomas Street) は、以前は日用品を売る露店がいくつも並んでいたのですが、最近は2軒ぐらいしか出ていないようです。


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また、ミース・ストリート (Meath Street) にあるリバティー・マーケットには、雑貨を売るお店が集まっています。ここは健在です。


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ジョンズ・レーン蒸留所の建物と敷地は、1980年以降、国立芸術デザイン大学となっています。


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キャンパスには使われなくなったポット・スチルが残されていて、蒸留所時代を忍ばせます。


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最近はIT関係の会社が集まる工業団地もでき、再開発も進んでいるようです。こちらがそのデジタル・ハブ (Digital Hub) という名の工業団地です。中央に見えている先端が緑色の塔は、セント・パトリック・タワーという名前です。これは、ジョージ・ロウ&サンズのトーマス・ストリート蒸留所に動力を提供していた風車でした (現在は羽根が取り除かれています)


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若くてお金もある人たちも集まってきたことから、そうした人たち向けのおしゃれな店もいくつかできています。これはその中の1つ。Legit という名のカフェ。ご飯も食べられます。ミース・ストリートにあります。


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それから、このあたりを散歩していると、キリスト教関係の像がいくつか目に入ります。こちらはグレイ・ストリート (Grey Street) とレジナルド・ストリート (Reginald Street) の交わるところにあるキリスト像。意匠を凝らした鉄製のキャノピーに守られたキリスト像が、交差点の真ん中に立っているのです。


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台座に刻まれたテキストによれば、この像は1929年にカトリック解放100周年を記念してセント・キャサリン教会の教区民によって建てられ、1979年の教皇ヨハネ・パウロ2世のアイルランド訪問を記念して復元されたものだとか。

 

昔はアイルランドのカトリック教徒はすごく迫害されていました。プロテスタント教徒に許されているのに、カトリック教徒には許されないことが多かったのです。それが、1829年にローマ・カトリック信徒救済法というのができて、状況が大きく改善されたわけです。その100周年を記念して建てられた像ということですね。

 

あと、由来は不明ですが、こういう像もあります。

 

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最期になりましたが、ダブリンの観光名所であるギネス博物館やクライスト・チャーチがあるのもリバティーズです。蒸留所の見学も合わせて、リバティーズを歩き回るだけで1日過ごすことができるでしょう。ヴィカー・ストリート (Vicar Street) という有名なライブ・ハウスもあります。

 

Guinness 


では次回からは、リバティーズで現在稼働する4つの蒸留所について、順番に紹介していきたいと思います。


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かつての輝きを取り戻しつつあるアイリッシュ・ウイスキー

歴史
03 /20 2020


ここ10年ほどのアイリッシュ・ウイスキーの復興は目覚ましいわけです。


現在アイルランド島には、稼働中、建設中、承認待ちの蒸留所を合わせると蒸留所が約35あります。ジェムソンなどを製造するアイリッシュ・ディスティラーズ社のニュー・ミドルトン蒸留所、メキシコのホセ・クエルボ社傘下のブッシュミルズ蒸留所、スコッチのウイリアム・グラント&サンズが所有するタラモア蒸留所など大手もあれば、マイクロ・ディスティラリーと総称される新興の小資本の蒸留所もあります。



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(ブッシュミルズ蒸留所) 



もともとアイルランド、特にダブリンは世界に名だたるウイスキーの生産地でした。19世紀の後半のことです。この頃、アイリッシュ・ウイスキーは世界のウイスキー市場の約70%を支配していました。ロンドンで販売されるウイスキーの3本に2本はアイルランド産であり、アイリッシュ・ディスティラーズ社に残る当時の記録によれば、同社の前身の会社が蒸留したウイスキーはブラジル、モーリシャス、ホンジュラス、オーストリア、ニュージーランド、カナダにまで輸出されていたそうです。


ところが、20世紀に入って潮目が大きく変わります。それは、蒸留所自体やウイスキーの品質の問題というよりも、外部の政治的な要因によるものでした。


第一次世界大戦により生産が大きく乱された後、大きな輸出市場であったアメリカで禁酒法が制定されます。また、1921年にイギリスから独立したことにより、世界に散らばる植民地を含む大英帝国から事実上締め出されます。関税のかからないスコッチ・ウイスキーに価格的な競争力でかなわなくなったからです。


さらに、製造方法のイノベーションでもスコットランドに後れを取ることになります。伝統的な製法では、大麦を原料としてポット・スチルと呼ばれる形式の蒸留器を使って蒸留するわけです。しかし、ポット・スチルではバッチごとに中の液体を入れ替えて掃除しないといけないため、蒸留に時間がかかります。


 

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(ボットスチル @旧ジェムソン蒸留所) 


この点を改良しようとイニーアス・カフィ (Aeneas Coffey) というアイルランド人が連続式蒸留器を発明します。19世紀前半のことです。カラム・スティルまたは彼の名前をとってカフィ式蒸留器などとも呼ばれます。連続式蒸留器ならポット・スチルよりも効率的にウイスキーを製造することができます。



イニーアス・カフィ

(イニーアス・カフィ) 


ところが、アイルランドの蒸留所は連続式蒸留器の採用を拒否します。味が落ちるという理由もあったかもしれませんが、蒸留所側にものづくりのこだわりみたいなものがあったのかもしれません。連続式蒸留器は海を渡ってお隣のスコットランドで採用されることになるわけです。


19世紀の終わりごろになると、スコットランドのブレンド・ウイスキーとアイルランドのモルト・ウイスキーの競争は激しくなります。アイルランドの蒸留所は、連続式蒸留器で作ったアルコールなどウイスキーとは呼ばせないぞ、ということで、「Truths about Whisky」という出版物まで出してキャンペーンします (スコットランドのポット・スチル蒸留所ももちろんブレンド・ウイスキーには反対の立場です)


 

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(連続式蒸留器 @キルベガン蒸留所)



争いを解決するために、ロンドンで王立委員会が設立され、37回にも及ぶ慎重な協議の結果、連続式蒸留器で作ったアルコールをブレンドしたものもウイスキーと呼んでいいと正式に決定されました。これにより、スコッチ・ウイスキーの勢いはさらに増し、アイリッシュ・ウイスキーの立場は相対的に弱くなっていったわけです。


そんなこんなで、20世紀半ばにはアイリッシュ・ウイスキーは絶滅寸前に追い込まれます。最後まで残っていたアイルランド共和国の大手3(ジェムソン、パディー、パワーズ) が合併してアイリッシュ・ディスティラーズ社を設立 (1966)10年ほどかけて製造拠点をミドルトンの蒸留所に統合します。こうして1970年代後半から80年代にかけては、北アイルランドのブッシュミルズ蒸留所と合わせてアイルランド島に蒸留所が2つしかない状態が続いたのでした。


ところが、ここ10年ほどの間に、新しい蒸留所が次々と設立され、アイリッシュ・ウイスキー業界は大きな賑わいを見せています。輸出産業の柱の1つに成長しつつあると言っても過言ではありません。


また、ウイスキー・ツーリズムと言って、蒸留所の見学に訪れる観光客も多いわけです。アイリッシュ・ウイスキー協会(IWA)の推定によると、2018年にはあわせて約923,000人の観光客がアイルランドの蒸留所を訪問しています。この数は5年以内に数百万にまで上昇するのではないかと同協会は見ています。ウイスキーが目的の観光客は1人平均約60ユーロを使うので、アイリッシュ・ウイスキー業界の売り上げに約5,500万ユーロほど貢献しています。これにプラスして、宿泊費や交通費がアイルランドに落ちることになります。


個人的な話になって恐縮ですが、私自身はダブリンの旧ジェムソン蒸留所の近くに住んでおり、ジェムソン蒸留所の昔の建物がSOHO事業者向けのオフィスとして貸し出されていたのでその一部屋を借りていたこともあります(私は自営業です)。また、アイリッシュ・ウイスキーの黄金時代にたくさんの蒸留所が集積していたため、ゴールデン・トライアングルと呼ばれていたリバティーズ地区にも歩いていける距離です。


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(旧ジェムソン蒸留所のチムニー。現在は展望台として再利用) 



私はお酒がそれほど強い方ではないので量は飲めないのですが、ウイスキーにまつわる歴史やビジネスの話には興味が尽きません。蒸留所見学体験記 (蒸留所に限らず私は工場見学がとても好きです)などを含め、このブログでは現地に住んでいる人間ならではのアイリッシュ・ウイスキー情報をお届けできたらと思っています。よろしくお願いします。



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tarafuku10

アイルランド・ダブリン在住。男性。